今日、空みた?

自分で考える、ということを考える

人生に意味はないと結論した釈尊が80年も生きた理由 (London)

生きる意味とか意義がどうしても必要なら、創り出せばいい。釈尊がそうしたように。

釈尊は、生きる意味などない、全ての煩悩の源はまさしくその生きる意義とか意味という言葉の裏に在る生存欲だとした。

生存欲を除くと煩悩の根源も消えるので苦しみはなくなる。釈尊が到達した輪廻転生の苦しみから解脱するための悟りとは、それだった。

生きようとする本能的な欲を断てば因果応報は成り立たず、故に輪廻転生の終わりのない苦しみの輪から脱することが出来る。

だから本来なら、その悟りに至ったまま静かに断食でもして死を待つことが、解脱への最短距離になるハズだ。でも、釈尊は死を選ばなかった。

生存欲を最大限に抑えながらも、説法をしながら生きることを選んだ。方便として。それを 生きる仮の意味とした。そして、80歳まで生きた。2500年も前に。解脱して後、40年も遊行説法をしながら生きたのだ。

私は釈尊がその方便の暮らしを結構愉しんでいたのではないかと思う。彼が説いた、 八正道(中道)は、生存欲を極力抑えて生きるための教えだが、現代から見れば、科学データで裏付けされた健康的な生活を送るためのノウ・ハウそのものだ。頑張りすぎない、とらわれない、食べ過ぎない、そして自分を観察する瞑想(今で言う、エモーショナル・インテリジェンスを養う)を日課にする。

生存欲を抑える教えが、健やかな長生きに繋がるとは釈尊も思わなかったのではないか?そして、人生に意味なんてない、といいながら、方便とした遊行説法で、人々が苦しみから救われていく姿を見る度に、彼は生きる喜びを感じたのではないだろうか?

意味とか意義なんて言う、言葉に制限されたものではなく、もっと広く深い、体の芯から湧いてくるような喜び。

釈尊は案外「もう、これ止められへんわ〜。もっと長生きしたいなぁ」なんて、思っていたかも知れない。

 

参考文献「ブッダが考えたこと」宮本啓一

 

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