今日、空みた?

自分で考える、ということを考える

一人になって考えたこと(Switzerland, Bulle)

去年の今頃、愛して愛して愛したクルジェットが逝ってしまった。

18年と8ヶ月、一日も欠かさず私を幸せにしてくれた。そして7ヶ月後には、娘のパタドゥーも逝ってしまった。お母さんのクルジェットと共に、17年と3ヶ月、私に毎日元気をくれた。

私の家族だった2匹の猫さん達はこうして私をひとり残して逝ってしまった。

いつか終わりが来る、と覚悟は出来ていた。2013年の秋にクルジェットが病気になって、獣医による治療のせいで目が見えなくなり心臓発作を起こしたあの時。 

懸命に看病しながら、神様にお願いした。せめて数日、命をつないでください、と。もう一度彼女を幸せにする時間を下さい、と。私の願いは叶って、クルジェットは順調に回復し目も再び見えるようになった。そして、私達は数ヶ月後にジュネーブからヌシャテル州にある農家の一角に引っ越しをした。

窓の外には庭があり、その先には草原が広がる、見えるものは、 農家で飼われている馬やポニー、孔雀にラマ、そしてたまに通りかかる犬とその飼い主達だけ。

私は会社を辞めて、主に自宅で仕事をしながら 彼女達と共にいた。朝も、昼も、夜も。 数日だけでも、とお願いした私に神様は4年以上に及ぶ蜜月の時間と空間を与えて下さった。 

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いったい、どんな良いことをしてこんないい目にあうのか、いつかバチがあたるんじゃないか、と正直怯えた。

こういう幸せな日々もいつか終わる、それは明日、いや、今日かも知れない、と毎朝覚悟を新たにしながら胸がつぶれた。

時間が経つほどにその恐れは現実味を帯びて大きく重くなった。そんなことは考えずに、今を堪能しよう、と思い、そうしていても「いつ?」と私の心は問うてくるのだった。怯えて待つ時間が辛くて、その時がもうすぐ来て欲しいと願う気持ちさえ芽生えてきた。 

だから、彼女達が逝ってしまって、正直、安堵もした。あぁ、やっと、もう心配しないでいい、と。

クルジェットとパタドゥーは私が願ったように旅立った。天寿を全うして、 苦しまず静かに私の見守る中で去って行った。「逝くときはこうやって美しく潔くね」と私に見本を見せてくれるような大往生だった。母娘揃って。

今も私は、クルジェットを思い、パタドゥーを思い、時々泣いている。でも、ようやくこうやって彼女達のことを書けるようになった。力が抜けてしまったような体に、少しずつ勇気と元気が戻ってきている。

 

もう、いつ死んでしまっても構わない、と思っているけれど、それは彼女達が逝ってしまって絶望しているからではなく、もう、思い残すことはない、という意味で。

クルジェットとパタドゥーを精一杯幸せにして、安らかに天に送ることが、私の人生で一番大きな望みだった。逆に彼女達を遺して私が死んでしまうことが人生最悪の事態だった。望みは叶ったのだ。

世間に認められるようことは、何一つとしてやっていないし、それを後悔してもいない。ただ、私なりに一生懸命やりたいと思ったことをやり、本気で笑って泣いて怒って楽しくやって来た。奇跡がたくさん起こった。多くの素晴らしい人に出会い、とてもよくしてもらった。非力ながらもそれなりにお返しも出来たと思う。

だから今は、「有り難くもあり、有り難くもなし、差し引きゼロの人生だった。チャンチャン」という心境で、いつ逝ってもいいと思っている。

でも、私の天寿の終わりが、今日、明日でないのなら、その時がくるまで、自分らしく楽しく、活きぬきたいと思う。退屈だけはしたくない。幸せの真逆は、退屈だ。

だから、Engage to Enjoy. 生きるんだったら本気で活きる、関わる。そして本気で愉しむ。リアクションで日々を過ごすのではなく、プロアクティブに未知や怖れと優雅にダンスをしながら、自分で考えて。

と言うわけで、このブログは、私の「自分で考える、の記」です。

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