自分で考えるって、どういうこと?(England, Ruislip)
自分で考える、とはどういうことなのか 私はイマイチ分からない。
ワカラナイ、とカタカナで書いてしまいたくなるほどワカラナイ。
自分の恥をさらすようだが、何を隠そう私は、自分で考えることをファシリテートする専門家なのだ。こうやって文字にしてみると冷や汗が出る。
自分がワカッテイナイことを人に教えてもイイんですか?良心の声が問う。
いや、教えるんじゃなくて、一緒に学ぶんです。学びのファシリテートをするんです、というのが私の弁明だ。
実際、自分で考えることの高みと広がりに際限は多分なくて、あらゆる芸のように磨けば磨くほど新しい景色が見えてくるのだと思う。そして、その人だけが持つユニークな輝きが増してくる、とこれまでの経験で実感した。私自身についても、これまで関わった人達も。
私は、英国の小さなコンサルタント会社 Timet to Think社の公認コーチ、ファシリテーターだ。Timet to Think社 は ナンシー・クライン(Nancy Klein)というアメリカ人女性がオーナーで、私は彼女が書いた「Time to Think」という本を5年ほど前に読んで、ナンシーに惚れ込んでしまった。
感動ものの本を読んで、この人に師事したい、と思っても、既にその人はこの世にいなかったり、あまりに遠いところにいてそれが叶わないことがほとんどなのだが、ナンシーは現役で、しかも私が住むスイスからさほど遠くないイギリスのオックスフォードシャーに住んでいる。
以来、彼女に師事すること4年あまり。先月末に始まったThinking Partnership Teacher’sのプログラムを来年秋に終了し認定されれば、晴れて Timet to Think社のコンサルタントとして、同社の全てのプログラムを教えることが出来る。自分で考える環境を創るエキスパート中のエキスパートになるのだ。
ここまで来ながら、しかし、私には「自分で考える」と言うことが、ストンと腑に落ちない。
モチロン、毎日自分で考える修行をしている、というか、自分で考えているつもりである。でも、自分で考えるというのは、こういうことです!と、明言できない。どうしても、長ったらしい説明になってしまう。
英語では、to think for self と表現する。「自分のために考える」と訳してしまうと、それは、違う。自分で考えるとは、他人の意見とか、常識とかに縛られず、しかも、自分の中にある思い込みをも正しく検証しながら考える、と言うことだ。
ね、長ったらしくて、おまけによくワカラナイでしょ?難しそうでしょ?
実際、とっても難しい(^0^ ;)
ナンシー・クレインは、「自分で考えることは、未だに過激な行為である」(Thinking for self is still a radical act)、といいきる。
でも、多分、大部分の人は、「私はいつも考えてる」と言うかも知れない。実際私もそうだった。人間だから、そりゃ考えるだろう、と思っていた。
だけど、聞くと聴くが違うように、なんとなく思い巡らすことと、考えることは違う。
自分で考えるためには洞察力が必要だ。そして、ナンシーの言うところのThink for selfは、その洞察の対象が他者や物や出来事ではなくて、自分自身だ。
これが、一番難しく、急進的で過激なところだと思う。自分の有り様を洞察することは、これまでの自分をつくって来た価値観を全て見直すことだから。
鎧も服もぜ〜んぶ 取っぱらっちゃって、素っ裸になった時に、実際に自分というものが本当にあるのだろうか?という不安。あったところで、どうせロクなものではないだろう、という恐れ。だから私達は無意識に自分で考えることを避けるのかも知れない。
本当の自分なんて、知りたくない、見たくない。
それに、自分で考えてことを起こして、失敗したときにどうする?自分がもっとダメな人間だと思って落ち込むだけじゃないか。私は嫌だったけど、反対だったけど、仕方なくあの人の言うとおりにしたらこうなった、と人のせいに出来なくなってしまう。
では、何故自分で考える?